昭和行刑史に残る脱獄王・白鳥由栄の人生

1933年(昭和8年)、青森県で準強盗致死事件が発生する。雑貨商浦川亀吉(かめきち)方に覆面をした2人の男がしのびこみ、店内を物色中に隣室に就寝していた竹蔵(たけぞう)に気づかれる。

男たちは逃げるも、腕に覚えのある竹蔵は勇敢にも追いかけ、1人を捕まえ組み伏せる。しかし、もう1人の男が仲間を助けるために竹蔵の背中を日本刀で切りつけ、さらに組み伏せられていた男も所持していた短刀で刺し逃走。

竹蔵はこのときのキズが致命傷となり6日後に死亡、その後青森警察署の必死の捜査により首謀者の1人であった白鳥由栄(しらとりよしえ・明治40年7月生)を逮捕する。

白鳥由栄
出典:白鳥由栄40歳当時(脱獄王 斎藤充功)

この白鳥由栄こそ、昭和行刑史に残る4回もの脱獄を果たした男であった。

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秋田刑務所鎮静房

青森刑務所→秋田刑務所→網走刑務所→札幌刑務所と4回にわたる脱獄、さらには警察の捜査をかいくぐり長きにわたる逃亡を成功させた秘密には、人並み外れた強靭な肉体と知力にあったという。

青森刑務所の脱走で捕まった後、無期懲役囚となった白鳥は秋田刑務所に移送されていた。このとき日本は戦時真っ只中、真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争が勃発し、世相は混沌とした時代を迎えていた。

秋田刑務所
出典:秋田刑務所(脱獄王 斎藤充功)

青山刑務所での脱走を教訓に秋田刑務所ではさらなる厳しい監視体制を敷くことになる。その一つが鎮静房であった。鎮静房は一坪たらずの部屋で、床はコンクリートで固められ、周囲の壁には銅版が張られている監房である。

天井までの高さは3メートルほどあり、天窓には金網で覆われたガラス窓がはめられていた。脱獄する恐れのある白鳥は、塔のようなこの房で過ごすことになる。しかし、脱走不可能と思われていた鎮静房でさえ破ったのであった。

午前5時30分

いつものように舎房の点検が終了し、各舎房を担当する看守部長が「異常なし」と看守長に報告する。

普段と変わりない1日が始まるはずであった。が、そのとき1人の看守部長が血相を変えて走り込んでくる。

「白鳥が鎮静房から逃走しました」

1942(昭和17)年6月14日、厳重な監視をよそに白鳥由栄2回目の脱獄に成功する、34歳であった。

脱獄計画

看守による厳しい監視を受けていた白鳥は、脱獄の機会をうかがっていた。天窓を見るとガラス窓が腐りかけていることに目をつけ、ここから脱走することを思いつく。

はじめに試したのは3メートルにも及ぶ天井へ続く銅版の壁をどうやって登るかであったが、これは白鳥の並外れた身体能力によって解決した。

銅版張りの壁と壁が直角に交わる角に両手、両足をふん張って体を壁に押しつけるようにして、天井まで上ることができるかどうか二、三十回は練習してみたんだ。(白鳥由栄本人インタビューより)
出典:脱獄王 斎藤充功

常人では不可能な脱獄経路も白鳥であれば難しいことはなかった。また、白鳥は関節と靭帯(じんたい)の可動範囲が異常に広く、首が入る隙間であれば各部の関節を外すことですり抜けることも可能だったという。

天井までの経路を見出した白鳥の残る課題は天窓の取り外しであったが、枠に取り付けていたブリキ片と錆びた釘を使って即席のノコギリを作製することで解決した。

ブリキ片に釘を交互に突き刺すことでギザギザを作り歯とした。作業時間は看守の隙をついて一日10分程度、天窓の木枠にミゾを入れていく、腐食していたこともありおよそ10日で天窓を簡単に外せるようにした。

また、毎日1回鎮静房の点検がおこなわれていたが、天井が高いことが幸いし看守たちに見つかることはなかった。こうして、計画は順調に進んでいき運命に日を迎えたのである。

その後も白鳥は看守をあざ笑うかのように、超人的な身体能力と緻密な脱獄計画からうかがえる知力の高さで、計4回もの脱獄、逃走を成し遂げたのであった。

逃亡生活

網走刑務所博物館
出典:網走刑務所博物館|Flickr

白鳥由栄の凄さは脱獄だけでなく巧みな逃亡生活にもあった。計4回の逃亡生活は数日のものから数年間の長いものまであった(自首することもあった)。

一番長い逃亡生活は、敗戦の気運漂う1944年8月のこと。37歳のとき、3回目となる網走刑務所からの脱走で2年間逃げ続け、この間日本が敗戦したことすら知らなかったという。

白鳥の逃亡生活は、人里を離れ山に潜む生活を主としていた。ときおり人里に下りては民家から食料や衣類などを盗み、また山に戻っていく。同じ村で盗みをはたらくことで、警察に通報される恐れがあるため、定期的に山々を移動する生活をしていた。

世間と逆転の生活をし、昼間睡眠をとり夜に行動することを心がけた。方角は星の位置を頼りに真っ暗なけもの道を歩いたという。

また逃亡中、日々の出来事を日記にしたためていたが、警察に没収されることを考え0から9までの数字とイロハを組み合わせて、独自の暗号文で日記を書いていた。

憎悪と情

これまで、看守たちの徹底的な監視体制が逆に白鳥の闘争心を掻き立てていた。自分を人間扱いしない看守や警察に対する激しい憎悪が脱獄の原動力となっていたのだ。

しかし、府中刑務所に移送されたことで白鳥に転機が訪れる。府中刑務所所長であった鈴木良蔵との出会いが彼を変えていった。

白鳥と初めて対面した鈴木は手錠・足錠を外させる。脱獄防止のために白鳥には特注の戒具が付けられていたのだが、それを取り外すようにさせた。今までとは全く異なる対応に白鳥も驚きを見せる。

鈴木は白鳥の受け入れ体制に思案を重ねていたが、彼が出した答えは厳戒態勢は当然としながら、白鳥を1人の人間として尊重して扱うというものであった。戒具を外させたのもその表れだった。

府中刑務所へ収監された当初は看守に反抗的で荒れていた。しかし、鈴木所長をはじめとする看守たちの献身的な対応により白鳥の心は落ちついていく。

鈴木所長さんのお蔭で俺の府中時代は自由があった。それで、所長さんの恩義は忘れない。絶対に逃げないと約束したんだ。そして模範囚になるため頑張り、一級までいったんだ。はじめて仕事をさせてくれたのも所長さんで、最初は昼夜独房の房内で、封筒貼りと糸つむぎの仕事を与えられ、一年くらいしてから次は炊場で精米工の仕事をやらせてくれたんだ(白鳥由栄本人インタビューより)
出典:脱獄王 斎藤充功

次第に脱獄を考えなくなっていく白鳥。更生させるには威圧的な態度だけでは困難であることを物語っていた。

晩年

模範囚となり真面目に刑を受けていた白鳥に、鈴木所長は仮出所の道を模索しはじめていく。1961年、入所から14年と4カ月、ついに白鳥に仮出所の許可が下りる。このとき白鳥は54歳になっていた。

何十年ぶりかの娑婆(しゃば)、はじめこそ慣れないことばかりであったが、身元引受人の大島夫婦(更生保護施設職員)らの支援もあり、その後、自慢の体力を活かし建設現場での仕事を見つけ社会復帰を果たす。

1973(昭和48年)66歳のとき心臓病を患い働けない体になる。生活保護を受けながら幾度かの入退院を繰り返し1979年(昭和54年)2月、三井記念病院の病床で息をひきとる、享年71歳であった。

破獄 吉村昭
戦前から始まる計4回にわたる脱獄事件をモデルにした小説。登場人物はすべて仮名になっていますが、史実を丁寧に調査して描いている傑作。
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