5分でわかる手塚作品から考える戦後日本マンガ史

戦後日本マンがの第一人者と言えば、間違いなく手塚治虫先生その人。

そのため、日本マンガ史の大まかな流れを掴んでいく上で、手塚作品を主軸にその後のマンガ発展の歴史を見ていくと分かりやすい。

手塚作品の研究者としてぼくがまっさきにイメージするのは夏目房之介さん。

NHKで放送されていた『夏目房之介の漫画学』や『BSマンガ夜話』などでもお馴染みの方。

そこで、ここでは夏目房之介氏の著書を参考に、戦後以降のマンガ史を見ていこうかなと思いやす。

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戦後と手塚の試み

戦後、手塚治虫の登場によってマンガの質が一気に向上していく。子供はもちろん大人が読んでみ耐えうるストーリー、キャラクターの多彩な表情や心理描写は今ままでのマンガにはなかった。

手塚作品とは何かと言えば、

手塚の問題意識は本当は子供のものではなく、かといって大人向け風刺マンガのものでもありませんでした。いってみれば大人と子供の過渡期である青年期的な問題意識だと思います。
出典:マンがはなぜ面白いのか 夏目房之介

手塚が描きたかったのは青年期的な問題意識。そこで試みたのが表現力の多彩さ。コマの配置やキャラクター表情の豊かさ、汗やハッとしたときの線や星など、マンガの中にさまざまな記号を取り入れはじめる。

こうした試行錯誤をしてく中で、生死をテーマにした作品やドストエフスキーの『罪と罰』といった文学作品をもマンガで描けるまでに表現力の向上に成功する。

ちなみに、少年誌で恋愛や性をテーマにした作品も果敢に挑戦してまして、女性の上半身の裸を描いたりしてます(ロストワールド)。

1977年にカッパ・ホームズから出版された『マンガの描き方』には、手塚の漫画技法ともいうべき、どういう思考で漫画を捉えていたのかがよく分かる手法が紹介されている。

マンガの描き方
出典:マンガの描き方 手塚治虫

目・眉毛・鼻・口を各パーツごとに分け、それぞれの組み合わせによってキャラクターの多彩な表現を容易に可能にした。さらには、汗や星などを組合せることでレパートリーの幅はさらに増えていく。

要するに手塚はマンガの絵を、無意識に漢字とおなじように考えたんだと思う。彼の記号に分解できるマンガ絵の手法は、漢字を解(かい)する日本人にとって受け入れやすい手法だったはずだ。
出典:マンガの描き方 手塚治虫 夏目房之介解説より

手塚が編み出した手法はマンガの質の向上に貢献し、多くの漫画家たちが学んでいった。しかし皮肉なことに、その後自身の首を絞めることになっていく。

劇画ブームの到来である。

アンチ手塚 劇画ブーム

劇画は手塚作品をボッコボコにするために登場した作風といってもいい。60年代、時代の流れとともに手塚の絵も古臭く子供っぽいと感じるようになっていく。そんな中で誕生したのが劇画でした。

手塚の初期作品で使われていたカブラペンに対して、劇画で使用されたのはGペン。強弱のある荒々しい線が描けるのが特徴で、これが受けた。分かりやすいところで言えば、さいとう・たかおの『ゴルゴ13』があります。

一般的に、劇画ブームは60年代後期からとされていますが、このブームを考える上でポイントになってくるのが団塊の世代という圧倒的な読者層。

60年代に、それまでマンガにとっていちばんのお客様だった団塊の世代が、揃って青年期をむかえ始めることが、その背景にあります。
出典:マンガはなぜ面白いのか 夏目房之介

今の認識とは違い、当時の子どもたちはマンガは中学に上がれば卒業するものというのが一般的でした。しかし、ここに「劇画」が登場したことで一遍する。

劇画の登場により団塊の世代、つまりは圧倒的な読者が青年期を迎えても漫画が面白い!読みたい!と思わせたことで「青年向けマンガ」という1つの市場が確立する。

このほか少女マンガもこの頃から人気ジャンルの1つとして成長していき、さらには小学生・中高生・大学生・社会人・OL・主婦などなど、その後さまざまなターゲット層に向けたジャンルが登場し細分化していくきっかけにもなった。

つまり、団塊の世代という圧倒的な需要者によって漫画界全体を活性化させていくだけの十分な原動力が生まれたといってもいい。

今やマンガは日本文化の1つと考えていいほどその地位を確立しましたが、そのきっかけは劇画ブームにあったと言えそうです。

戦後手塚治虫の登場によって起こった現象を第一次マンガ革命とするならば、劇画の登場は第二次マンガ革命といってもいいほど日本のマンガ文化にかなりの影響を与えることになり、どちらにおいても手塚治虫が深く影響していることに代わりはない。

まさにマンガの神様たるゆえん。

原点

手塚作品には深刻な悲劇の欲求や生死についての青年期的な問題意識が存在することは既に夏目さんの引用から紹介しました。

では、彼がそのような考えに至った思想の原点はどこにあるのだろうか。残念ながらその答えは本人にしか分かりません。

しかし、彼の自伝本を読んでいくと、戦時中、あるいは終戦の体験が彼の作品に深く影響しているように思います。このことはこれは夏目さんも指摘しているところ。

空は一面夜のような暗さで、あちこちの火の手が、ダンテの地獄篇のようなすさまじさを呈していた。きな臭く黒い雨がしきり、淀川堤は死体や瓦礫の山で、ことに大橋の下は、避難した人々の上へ直撃弾が落ちて、折り重なって黒焦げになっていた。牛が一頭、半分埋まって、ビフテキのようなにおいをただよわせていた。ぼくは、もう沢山だと思った。もう結構。これは、この世の現象じゃない。作り話だ。漫画かもしれないおれは、その漫画のその他大勢のひとりにちがいない。それなら、早いこと終わりになってもらいたい。
出典:ぼくはマンガ家 手塚治虫自伝・1 手塚治虫

この引用文で気になったのが、主語が急に「ぼくは」から「おれは」に変わってたところ。地獄のような世界を目の当たりにした手塚青年がなにを考え、どんな心境の変化が起こったのでしょうか。

彼の尋常ならざる仕事量などを見ても、どこか生き急いでいるようにも思えてなりません。そこには戦争の暗い影がその後の人生に深く影響していたのだろうか。