インドネシア元大統領スカルノ氏の第三夫人として波乱万丈な人生を送ってきたデヴィさん。インドネシアの情勢不安、他の夫人たちとの確執など、さまざまな障害が彼女を待ち受けていました。
スカルノ氏は恋多き男性だったようで、デヴィさんを正妻として迎え入れたあとも、愛人を作ったりといろいろ大変だったらしいです。
そんなスカルノ氏にデヴィさんもブチぎれたこともあり、出産のために強制的に日本に帰らされたときには、日本の有名な俳優さんと恋仲になったり・・・。
自身の半生を書いた『デヴィ・スカルノ回想記』ではそんな恋愛事情が赤裸々に語られておりまして、驚くことに某芸能人とのツーショット写真も載せています。
さて、その芸能人とはだれなのか?続きを読めば分かります。
出会い
終戦後、敗戦国となった日本にはGHQをはじめとする連合軍が統治をおこなっていました。そんな時代に幼少期を過ごしていたのが根本七保子、のちのデヴィ夫人。
当時からその美しさは際立っていたようで、自伝にはGIから可愛がられたエピソードも載ってたりしてます。
デヴィさんがスカルノ氏と出会ったのは、中学校を卒業して働きだしてからしばらくのこと。共通の知人であった「東日貿易」社長・久保正雄の仲介がきっかけでした。
スカルノ氏が来日した1958年に、少ない時間ながらも滞在していた帝国ホテルで会ったのが初対面。
このときは挨拶程度でじっくり話す機会もなかったんですが、それから数日後に再びお誘いがあり、このときは二人っきりの時間を過ごしたといいます。
告白
スカルノ氏がインドネシアへと戻ったあとは、彼から届く手紙で交流が続いていきます。あるとき、スカルノ氏から写真を送ってほしいと書かれていて、そのとき送ったのがコチラ。

出典:デヴィ・スカルノ回想記 ラトナ サリ デヴィ・スカルノ
ふ、、ふつくしい!!
デヴィさんのキメ顔は右ナナメなんですねと分かる一枚でもあります。
何度目かの手紙で、ついに「インドネシアに遊びに来ませんか?」と誘いを受けることになるデヴィさん。もちろん、ときの大統領に言われているわけですから、その行間はただの観光ではないわけです。
つまりは男女の仲。
この申し出を受けたデヴィさんは久保氏に伴われインドネシアへ行くことを決意します。そして、この滞在中にスカルノ氏から運命的なプロポーズを受け、そのままインドネシアに住むことになります。ちなみにそのときのプロポーズがこちら、
「私のインスピレーションとなり、力の源泉となって、私の人生の喜びとなってください」このような美しい言葉は百年生きていても聞けないのではないかと感動し、これはプロポーズなのだと悟った。
出典:デヴィ・スカルノ回想記 ラトナ サリ デヴィ・スカルノ
インドネシアに住居をかまえることになるデヴィさんですが、結婚式はすぐには行われませんでした。つまり、しばらくは愛人という立場だったんです。
その理由は、スカルノ氏は一夫多妻でデヴィさん以外にも妻が既にいたこで、妻同士のドロドロな関係を避けることが目的だったようです。
スカルノを愛したもう一人の日本人女性
恋多きスカルノ氏、実はデヴィさん以前にも彼に会いに故郷を発った日本人女性がいたんです。彼女の名前は金勢さきこさん。
デヴィさんよりも前にスカルノ氏のもとにいた日本人女性で、華僑系のビジネスマンの紹介で知り合い、いつしか恋愛感情が芽生えていったようです。
ただ、お互いに愛し合っていたというよりも、金勢さんの一方的な恋だったようです。スカルノ氏に何度か自分の想いを伝えるも受け入れてもらえず、手首を切る自殺未遂も起こしたといいます。
その後、スカルノ氏が忘れられずジャカルタまで会いに行くのですが、それでも願いが叶わず自宅で大量の睡眠薬を服用して自殺をはかってしまいます。
彼女の自殺にデヴィさんが影響していたかはさだかではありませんが、その後、週刊誌に根も葉もない記事を書かれるなど後々までデヴィさんを苦しませていきました。
妻たちの確執
スカルノ氏の正式な妻は4人いました。デヴィさんは第三夫人にあたるのですが、そりゃ夫人同士の仲はお世辞にもいいとは決して言えなかったようです。
第一夫人のファトマワティさんとの結婚生活は順調だったものの、のちの第二夫人になるハルティニさんが原因で、ファトマワティさんは大統領宮殿を飛び出すも、スカルノ氏は彼女を追わずじまい。
ファトマワティさんとしては5人の子どもたちの養育もあり、きっと連れ戻してくれるという算段だったのですが、追いかけてこなかった。
怒り狂ったファトマワティさんは協力者を募り次第に国民を巻き込んで拡大し、ついにはインドネシア初の女性デモが起こります。初めての女性デモが大統領の女性問題だったとは・・・ただ、結局は離婚します。

出典:President Megawati Sukarnoputri
ちなみに、第一夫人のファトマワティさんの長女・メガワティさんがインドネシア初の女性大統領になります。小泉政権の頃に日本に来日していました。
離婚→大規模デモへとつながっていった背景を考えても、スカルノ氏も妻にするにはそれなりの気配りと覚悟が必要でした。
そのため、愛人だった頃のデヴィさんは、公の場を極力避け、また妻との鉢合わせもさせないようにしていたんだとか。
インドネシアに渡ってからおよそ3年後の1962年、ようやくスカルノ氏の正式な妻として結婚式が行われ、日本国籍を除籍し、名前も根本七保子からラトナ・サリ・デヴィ・スカルノになります。
サンスクリット語で「宝石の聖なる女神」という意味で、スカルノ氏がつけてくれた名前だといいます。
正式な妻となったデヴィさんですが、恋多き男スカルノ氏の愛人問題でかなり悩んだ時期もあったそうです。
睡眠薬を大量に服用して自殺未遂をはかったり、自ら離婚を迫ったりしたのですが、そのたびにスカルノ氏に説得され離婚することはありませんでした。
ロマンス
スカルノ氏の女性問題で悩まされていたデヴィさんですが、実は日本に一時帰国したときに腹いせにとある男性と深い仲なったこともあったんだそうです。
その人物というのが、なんと津川雅彦さんなんだとか!これは驚き!!

出典:デヴィ・スカルノ回想記 ラトナ サリ デヴィ・スカルノ
自伝には津川雅彦とのツーショット写真がバッチリ載せています。2人の関係についてデヴィさんはこんな風に書いています。
津川雅彦さんは、打ち砕かれた私の心を明るく照らしてくださった。彼と一緒にいると、私はすべてを忘れることができ、心が弾んだ。彼は日本の男性が持つ素晴らしい素質を豊かにもつ紳士であり、私は彼に優しく守られていた。
出典:デヴィ・スカルノ回想記 ラトナ サリ デヴィ・スカルノ
日本に滞在していたときに、津川雅彦さんと男女の仲になっていたとはねぇ。それにしても、大統領夫人に手を出す津川雅彦って・・・
亡命、そして
インドネシアの情勢が悪化しスカルノ氏の立場が危うくなると、デヴィさんも命の危険を感じフランスに亡命。この時まだ20代。
その後スカルノ氏が危篤状態という情報を聞き、一目見ようと危険を冒してインドネシアへ向かったのですが、死に目には遭えませんでした。
亡命したフランスで10年ほど住んだあとインドネシアへ戻るものの、その後ニューヨークへと住まいを移します。
もちろん、その容姿からさまざまな浮名を流すのですが、再婚までには至りませんでした。また、実業家としての顔を持ち、フランスでビジネスを学びその後成功を収めていきます。
国際問題にも関心を寄せていたデヴィさんは国連環境計画の顧問となり、先住民の権利・保護や自然問題などに尽力する一面もあるのですが、ほとんど知られていないのが惜しい。
2000年頃から日本での仕事が増えていったこから、日本に自宅を構えて住みはじめます。その後は周知の通り、テレビ番組でひっぱりだことなり、現在の相方・出川哲郎をお供に余生を謳歌する日々を送っています・笑

出典:デヴィ・スカルノ回想記 ラトナ サリ デヴィ・スカルノ
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