私を離さないでは2005年にカズオ・イシグロが発表した長編小説。その後2010年にマーク・ロマネク監督により映画化。
2016年にはTBSでドラマ化もされ、このとき綾瀬はるか(保科恭子役)さんが主演を演じ話題になりました。
ここでは原作やドラマではなく映画「私を離さないで」を取り上げていきますが、作中においていくつか「気になった疑問」があったので、そこらへんを含め考察していきます。
20世紀という時代背景
まず映画の冒頭に表示されたこの表記に違和感を覚えました。

出典:©2011 Twentieth Century Fox|Amazon.com
科学モノを扱うSFといえば近未来を設定にしていることが多いですが、この作品の時代背景は1990年代のイギリスを舞台になっていました。
冒頭に映し出されたシーンで1952年に医学界に画期的な進歩が訪れたと説明し、クローンによる臓器移植が当たり前となった世界が描かれていく。
過去を描いているのにクローンを生み出せる科学水準は現在よりも明らかに高いという矛盾に気が付きます。
また、ストーリーの中心はクローンとして生まれた主人公らがメインで、外側にいる普通の(クローンではない)人間たちの倫理観などには触れていないく、社会問題は意図的に排除していました。
つまりクローン問題は主題を考えさせる導入にすぎないことが分かります。
そのためか、なんとも奇妙な世界観を作りだしていました。同時に、現実の延長上にある想定しうる未来を描いていないことにも気づきます。
1990年代を時代背景にしているのも、今生きてる私たちの世界とは切り離して扱ってほしい(未来小説を描きたかったんじゃないんだよ!)という作者の意図があったように思えます。
設定こそクローンや遺伝子操作といった今でも話題の絶えない題材ですが、この作品で描きたかったのはそこではない。
ヘールシャムでの奇妙な生活
主人公のキャシーが幼少時代に過ごした寄宿学校ヘールシャム。ここではさまざまなルールがあり、子どもたちは従順に従っていた。
定期的な健康チェック、ID管理される子どもたち、さらには外出禁止と明らかに違和感を感じるシーンが描かれていました。
そして何よりも、当然であるかのように誰一人として逃げようとはしなかった。これはコテージに移り住んてからも変わらなかった。
まず1つ言えるのは彼らの家は寄宿学校にしかなくそれがすべてだったということ。そんな状況下において「逃げる」という発想自体浮かびようがなかったんだと思う。
私たちからすれば「違和感」と思える行動は、物心ついた頃からずっと続けてきたクローンたちにとっては違和感どころか日常的な習慣と化していた。つまり
当たり前
の状況がそこにはあった。
この「当たり前」が私たちにとっては違和感として感じたわけで、これは明らかに監督の意図するところだと思う。IDチェックのシーンを何度も差し込んでいたことからも分かります。

出典:©2011 Twentieth Century Fox|Amazon.com
この当たり前に意義を唱える人物も描かれていた。それがルーシー。
ルーシーはまさに私たち視聴者の立場の人間と言える。しかしルーシーの意見はこの世界では異端、少数派なのだろう、その後退職に追い込まれてしまう。
この作品の恐ろしいところがここにある。
そこにある明らかな違和感。しかしをこの世界で生きている人間は普通に受け入れてしまっているところに怖さがある。
当たり前というのは大多数の同意によって成り立つもの、民主主義とも言いかえられるけど、大多数がいつも正しいとは限らない。
キャシーとトミーがマダムに会いに行ったときのマダムのセリフを思い返すと
作品は魂を探るためではなく魂があるのか知るためだった
とあった。つまりクローンは人間ではないと下しているのである。これは非常に怖い感覚だと思った。
臓器移植用クローンの技術が確立してから40年以上。一度人間が「当たり前」と認めてしまうと、たとえ問題や欠陥があろうとも疑うことを止めてしまう。
生きがい
最後は「私を離さないで」のテーマについて触れていきたい。それはズバリ
愛
でしょう。
純朴なキャシーが自分のモヤモヤした感情が「愛」であることに気付かず、自分のオリジナルがポルノ女優ではないかと勘違いしてしまう。

出典:©2011 Twentieth Century Fox|Amazon.com
寄宿学校からずっと好きだったトミーが告白してくれると期待するも、実は的外れな理由で勝手に気分を悪くして一人さってしまうキャシーとか。
もうウイウイしいキャシーの仕草は人間とかクローンとか関係なく可愛いさが描かれていた。しかもホールドミー、キスミー、コールミーなんて吐息交じりの曲を聴いてるんだからムラムラするのは当然w
だからキャシーの想いが届いたときはとても感動した。そして冒頭と終わりに登場するトミーの笑顔、泣かないわけがない!
ラスト、キャシーは「私たちと私たちが救った人の間に違いがあるのか?」と自分自身に問いかけます。
自問という形で質問していたのは興味深かった。けど悲しいかな選ぶのは当事者ではなくその周りにいる外の人間。
作中でほとんど触れられてこなかったその他大勢の人間の「当たり前」が認めた制度。そして、それは私自身のことでもあるのだと思った。