赤川次郎というと「三毛猫ホームズ」シリーズが懐かしい、マッチ箱をイタズラする猫からトリックのヒントを思いついたのが、第一作「三毛猫ホームズの推理」だった記憶がある。
小学校くらいのときか、さすがに主人公の名前は思えていないが、兄妹、そして妹に好意を寄せる刑事がいたような、いないような。
赤川作品はかなり読みやすいイメージ。今作も老若男女問わず「面白い」作品には違いない。けど、ゴリッゴリの叙述ミステリが好きな方には、
「お母さん、そこにあるお塩とって」的なノリで、物足りない。こい~味に慣れてしまった読者は、満足できないかもしれない、私のように。
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叙述ミステリとは?
叙述ミステリとは、作者が読者を騙くらかそうする作品のこと。思い込みを読者に誘発させ犯人像を見えなくさせる、しかし、作中にはしっかりとヒントを忍ばせておく。
傑作と評される叙述ミステリは、トリックの「意外性」と読者へ提示するヒントの「公明正大」さとの絶妙なバランスの上に成り立つ作品。
公明正大さとは、言い換えれば作者の「フェアさ」である。
叙述ミステリにおいて、しばしば議論されるトリックのフェア・アンフェア問題、フェアさが欠けている作品に疑問を持つのはこのためではないか。
結局、フェア・アンフェア問題とは大概は主観的なもので、読者の読後感次第で決まることが多い、つまり、問題でもなんでもないように思ったりもする。
本作「マリオネットの罠」でもフェア・アンフェア問題が勃発したようですが、読者それぞれが思うように読んだらええんやでと思うわけですが、
私的読後感として、この作品に「フェアさ」はあったのかと言えば、
見当たりませんでした
と言わざる負えないwww
3人の心理描写から伏線を探る
マリオネットの罠の中で描かれた叙述トリックにおいて、伏線となる文章は私が読んだ限り、見つけることはできませんでした。
この作品でいう叙述トリックとは、
真犯人は上田修一
というオチのこと。
意外性は申し分ない、まさか裏で操っていたのが主人公の修一だったとは、しかし「フェアさ」で言えば、作中に伏線のカケラさえ残していなかった。
ではどうフェアさが欠けていたのか、それを説明するために今回は、三人の登場人物の心理描写から攻めていこうと思う。
紀子の心理描写
まず考察したいのは、紀子の心理描写。彼女の心情から真犯人が上田修一であることが導けるのだろうか、一つ一つ確認していきたい。
美奈子は修一をひと目見て、気付いた。恋する者の直感だ。絶えず何か考え込んでいて、美奈子の話にも、どこか気のない様子で肯くだけだ。(中略)私は彼と深く深く結びついているのだから・・・
出典:マリオネットの罠 赤川次郎
知り合って1カ月ほどの男に愛情と信頼を寄せる紀子の心情が描かれています。彼女が漠然と心配していたのは、地下に幽閉されている雅子の存在だったのでしょう。
だが、そんな不安も修一に抱かれることで、彼を無条件で信頼する。この「愛情」が、修一を始末できなかった理由ではないかと思う。それは第三章で描かれていた紀子の心情にも通じている。
少なくとも自由にしてやる訳にはいかないのだ。できれば紀子は修一をこの組織に加えたいと思っていた。そうすれば、殺さずにすむ。殺す?初めから、殺すつもりなら、治療などしない。紀子は修一を生かしておきたかったのだ。理由など、考えたこともない
出典:マリオネットの罠 赤川次郎
紀子はハナっから修一を殺すとは思っていなかった。「理由など、考えたこともない」とありますが、文脈から考えるに、修一を愛していたからですね、ハイ。
紀子は修一のことを愛していた、けどそれは「直感的に」愛していたようです。意識下では好きだったけども、意識にまでは上ってはいない、出会ってから日が浅いことを考えれば理解できます。
「理由など、考えたこともない」というは、つまりはそういうことです。自分の感情を言葉にするまでには至っていないといったところでしょうか。
本題はここからです。
出会ってわすか数ヶ月でこれほどまで紀子を骨抜きにしてしまった修一、その理由は、、、分かりません。作中には一切描かれていませんが、紀子の父親・良三を殺害するほどの男ですから、女の本能で惹かれていったのでしょうか。
いずれにしても、紀子の心情からは、修一への愛は理解できても、修一が真犯人であるヒントは見出せません。ですが、地下の牢屋に入っていた雅子がなぜ、修一のために殺人を犯せるほど盲目的に愛することができたのかは導き出せます。
「そうね。きっと彼氏の好みのタイプは、私や姉さんよりも、むしろ・・・」
出典:マリオネットの罠 赤川次郎
このセリフは紀子と次女の芳子との会話。
芳子は紀子が修一が好きなタイプであることを見抜いている。そして、「むしろ・・・」に続くのは、「雅子の方が好みのタイプ」と言いたかったのでしょう。
つまり、紀子と雅子は修一が好みのタイプであることが分かります。ここから、紀子が本能的に修一を愛し、信じたように、雅子もまた修一を愛するはずという推測はできます。
ですが、それどまり。
修一が雅子を操っていた真犯人とまでは言い切れない。紀子の心情からでは修一が真犯人である根拠は見いだすのは難しいように思います。
雅子の心理描写
修一に操られていた雅子、一見するとシリアルキラーのように描かれていた彼女の心情から、修一につながる「ヒント」は探せるのだろうか。
雅子の描写は妄想と現実との区別ができない極度のメンヘラ女子として描かれています。ただ、そこには猟奇的な行動は際立たせてはいない。
トラックの運転手、芳子、峰岸家のお手伝いさんと、はじめは確かに関連性のない無差別殺人をおこしていた。
しかし、それははじめだけ。
美奈子は、精神病患者について、それまで抱いていた漠然とした概念を大いに改めさせられた。彼らは何ら普通の人と変わる所はなかった。いや、普通の人だからこそ、病にとりつかれたのだ。ただ1点、常識を踏み外しているだけで
出典:マリオネットの罠 赤川次郎
これは修一のフィアンセ、牧美奈子が平和園療養所に潜入捜査したときに、精神病患者に接したときの心情。この心情は、そのまま雅子の人物描写にも当てはまる。
赤川次郎が描く雅子像には、シリアルキラーという一面ではなく、20代の普通の女性像、ただ1点、人を殺すことに対する抵抗力が極度に低い妄想女として描いている節が読み取れる。
そのため、ターゲットとなる4人のおっさん以外を殺害したことに後悔する一面も見せていた。こうした心理描写も彼女が単なるシリアルキラーではないことを物語っている。
また、警察は4つの殺害事件の共通点を探していた。つまり、彼女は「目的をもって」犯行に及んでいたことは理解できた。
ここから、彼女の目的とはなにか→彼女を動かしている黒幕がいるのでは、と推測できなくもない。ここまでくれば雅子は修一を愛している→黒幕は修一??と繋がるかもしれない。
けど、これははさすがに飛躍しすぎでしょう。
ここには、文脈から導き出した考察も含まれており、作者が「意図して残した」ヒントとは断言できないからです。文脈の解釈は十人十色、客観性に乏しい。
修一の心理描写
なら、修一本人の心理描写はどうだったか。はじめ家庭教師として峰岸家に住み込むが、序盤では「雅子」を助け出す描写がメインで、正体については1ミリも描かれていない。
また、雅子が逃げてからは、修一は平和園に幽閉されていたこともあり、登場シーンは極端に少なくなる。平和園で紀子と会話するシーンもあったが、ヒントとなる描写はなかった。
エンタメ的ミステリ小説
叙述ミステリとして読めば、確かに読者への「フェア」さは欠けています。
ですが、そもそもの話、構成から考えても、読者に「トリックを見破ってみろ!」といったギラギラ感はなく、万人受けするエンタメ的作品を意識していたと思う。
伏線の張り方、そして、回収の仕方からしても赤川先生がいかに分かりやすく描いているのかが伺えます。
「私たち、3人ともみんな紅茶党なのよね」
出典:マリオネットの罠 赤川次郎
たとえば雅子の伏線、「私たち、三人」と紀子、芳子以外にも家に誰かいることをほのめかしたり、食器が四セットずつあったりと、細かい伏線が描かれているが、ほとんどの伏線がその章内でしっかりと回収しています。
雅子がウエイトレスに森田晴江という仮名で変装していたときも、その後しっかりと伏線は回収されており、晴江=雅子と疑問を残さず読み進めることができた。
こうした伏線の張り方は、読者に「サクサク読める」「気楽に読める」といった感想を与える、実際アマゾンレビューにはこうした感想が多い。
結局、読者の好き嫌いの好みに委ねられる。つまりフェア・アンフェア問題は主観的なのだ。
正直なところ本作に真犯人へとたどり着く伏線がしっかりとある、いわゆる「フェア」な叙述ミステリをご所望なら、本作は間違いなく肩透かしになる、読後感に不満が残る。
叙述ミステリとしてではなく、エンタメ性の高いミステリをご所望の方にすすめたい作品ですかね。
タイトルとラスト
結局、雅子は妄想と現実の境界線をなくし、現実に起こった「事実」として記憶を混同していたように思います。そんな雅子を愛の力によって殺人鬼というマリオネットに仕立て上げた。
さらには、紀子にも父親の良三が生きていると思い込ませ、美奈子もまた、密売を隠すためのカモフラージュとして結婚、いずれも知らぬ間に修一の操り人形(マリオネット)と化していた。
そして警察にすべてが明らかとなり、今度は修一自身がマリオネットになると言ってのける。
「今思ったんですよね。今度は僕がマリオネットになる番だ、とね。絞首台のロープにぶら下がって、手足をバタつかせるんでしょう」
出典:マリオネットの罠 赤川次郎
今までマリオネットのように他人を操っていた修一が、最後に自分がマリオネットのような姿になる、という皮肉たっぷりのオチで終わりを迎えた。
おまけ
マリオネットの罠が発表されたのが、1977年なんだとか、今読んでもほぼ古さを感じないのはさすがでございました。