慟哭は作家・貫井徳郎さんが93年に発表したミステリ小説。第4回鮎川哲也賞の最終候補まで残るも受賞には至らず。
しかしこの作品をきっかけに作家デビューを果たし、それがバカ売れ、当時50万部を超える大ヒットになったんだとか。
とはいえ、「慟哭」を純粋な巧妙な叙述トリックを使ったミステリ小説とは一概に言えない。それは主人公の境遇があまりに壮絶すぎたから、そして、胸糞悪い読後感というのもある。
というわけで、ここでは慟哭のトリックや作者のメッセージなど、いろいろ考察していきます。
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叙述トリックを考える
結論から言うと、慟哭のトリックとは時系列を利用した叙述トリックになります。
彼の視点で描かれるストーリーと、佐伯の視点で描かれるストーリー、一見すると時系列は同じ平成三年とばかり思っていた。
しかし、実際は平成三年と平成四年と、一年の時系列に差があった。月日が(ほぼ)同じだったことで、読者はこの2人は同じ時間軸にいる「別人」と思い込んでいた。
トリックがバレバレという指摘
構成は1、2、3・・・と数字によって区切られており、「1、3、5・・・」と奇数章は「彼(=以下、松本と表記)」視点、そして「2、4、6・・・」と偶数章は捜査一課長の「佐伯警視」視点で描かれていた。
ただ、この叙述トリック、読んでみると、読者に対してトリックを隠している節がない。トリックのあからさまなヒントがそこらじゅうに散りばめられているのである。
叙述ミステリを読んだことがない方は別としても、ミステリ愛好家、叙述ミステリ大好きっ子には、物足りない、あるいは序盤でトリックを見破ってしまったという読者は実際多かったように思う。
これについてはのちほど改めて取り上げるとして、まずは作中に散りばめられていたトリックのヒントを集めていこうと思います。
「いや、いまぼく横顔を見て気づいたんですけど、ぼく、どっかであなたとお会いしたことがありましたっけ?お顔に見覚えがあるんですが・・・」
出典:慟哭 貫井徳郎
と彼、つまり松本が実は佐伯警視ではないかと感づくセリフがありました。鋭い方なら「あぁ~、時系列がトリックなのね」とコナンばりに思いつくわけです。
残念ながら私はこのとき頭は真っ白、犯人の「ハ」の字も思い浮かんでいませんでした。これだけならトリックを見破れなかったかもしれません。
ただ
「そういえば、私もどこかでお会いしませんでいたか」川上が口を挟んだ。
出典:慟哭 貫井徳郎
ともう一度同じセリフをブッコみます。
このとき、えらい大胆な作者だなと思ったわけです。だって、さすがにこう二回も同じセリフがあれば、矛盾する点はあるものの、松本=佐伯とイコールで結ぶのは自然な流れだと思うんですよね。
そして佐伯の家族、娘が一人いることや、複雑な生い立ち、養子として佐伯の姓を名乗っていることなどが、中盤でほぼ一通り語り尽くしているわけ。
養子ということは離婚すれば旧姓に戻る、その理由はきっと現在捜査している幼女連続殺人事件と関係しているのだろうと考えていけば、それほどそれほど難しくないはず。
少なくとも、どんなトリックを使っているかはおいていて、松本=佐伯という繋がりは多くの読者が頭をかすめたはずです。
ここで私の性根の悪さが出てしまいましたw
つまり、作者は「こんだけヒント出しても読者は犯人分かんねぇだろうな」という読者見下し説を真っ先に思いついてしまったからです、ハイ。しかし、最後まで読むと実はそうじゃなかった(反省。
この作品には、トリックを読者に分からないようにするとか、犯人像を攪乱させるとか、そうしたところに作者は重きを置いていなかったのではなかろうか。
主人公、つまり佐伯、であり松本の心の変化、新興宗教にハマり、娘を失った父親の痛々しい部分をメイン描いていたのではないか。つまり、これって純粋なミステリ作品っていえるのかな?と思ったわけです。
タイトルから考える作者のメッセージ
それは「慟哭」というタイトルからも分かります。
たとえば、十角館の殺人では、叙述ミステリの傑作と同時に、クリスティの「そして誰もいなくなった」のオマージュ作品でもあり、「十角館」という孤島に佇む屋敷の名前がタイトルに付けられています。
同じく、叙述ミステリとして有名なハサミ男では、タイトルからすでに叙述トリックが仕掛けられていました。読者を騙す気マンマンなのがタイトルから分かりますw
これを踏まえたうえで、慟哭はどうか?
慟哭とは「声をあげて激しく嘆き泣くこと」、つまり誰かの感情を表しています。
誰の感情かといれば、主人公の叫びです。深い虚無、心にぽっかり穴が開いてしまった松本の心の状態です。タイトルとはその作品の顔、つまり、タイトルからしてミステリ作品とは違うメッセージを汲み取ることができます。
一応補足しておきますが、叙述トリックは読者にとっては分かりやすいという指摘は言えますが、だからこの作品の構成が稚拙とはイコールではありません。
ここは間違ってはいけないところ。
構成が甘いのではなく(トリックは最高峰だと思う)、文章のところどころに分かりやすいフックがあらかじめ仕掛けられていたんです。
タイトルの「慟哭」は松本の苦悩であり、今作のテーマなのはたしかです。そのため、「叙述ミステリ」として読むと重すぎてしまう。この作品が鮎川哲也賞を受賞できなかった理由もここらへんにあるのではと思ったりもする。
実際私も「叙述ミステリだから」という理由で本書を手に取った口なので、トリック以上に佐伯の心情が重くのしかかってきた。社会派、あるいなルポやノンフィクといったリアルさがある。
そんだけ読者の心を掴む凄い作品なのは間違いない、けどジャンルが「ミステリ」なんだよ、そこが問題なんだよな。
救われないラスト
叙述トリックの種が明らかになった後で、さらにもう一段階、暗い事実を用意していた作者。ここからも描こうとしていたのはなんだったのかが浮かび上がってきます。
「娘を―――恵理子を殺した班員は、判明したのでしょうか」
丘本は痛ましげに首を振った。
「いえ・・・・まだです」
出典:慟哭 貫井徳郎
やはり、私はトリックよりも松本の心境の変化に心を奪われる。
松本は新興宗教を心の拠りどころにはしていない。また宗教に救いなんて求めていない。松本が求めたのは自分の心を埋めてくれる存在。松本にとってそれが新興宗教だったってこと。
しだいに宗教に興味がなくなっていったことからも分かります。この一連の心の変化はミステリ小説という枠では推し量れない。これが貫井徳郎作品の特徴なんだろうね。
松本の新興宗教にハマっていった心境を一番よく現していたセリフがここ。個人的にはこのセリフがとてもゾワッとした。
「それは愚問ですよ、丘本さん。人は自分が信じたいことだけを信じるのです」
出典:慟哭 貫井徳郎
二つの新興宗教を登場させたのもとてもうまいと思った。
人間は自分が納得してしまうと、どんないかがわしいモノでも妄信的に信じてしまう。人間の脳ミソなんてバグの多いヘッポコ器官、追い込まれると自分でさえ制御できないから困ってしまう。
宗教はそんな心のスキを刺激するには長けすぎている。